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YOSHIHIDE MUROYA 室屋義秀(むろや よしひで)

室屋 義秀(むろや よしひで)173cm/70kg  福島県福島市 在住
総飛行時間:約3500時間(内エアロバティック飛行時間:約100時間)
幼少の頃テレビアニメでみた「機動戦士ガンダム」。その主人公アムロ・レイに憧れてパイロットへの道を歩みだす。
共通点は「ムロ」。もしかしたら親戚?、自分もニュータイプ?などと思いながらガンダム搭乗を夢見る。その頃旅客機のコクピットを見学させてもらった事をきっかけに、ガンダムと飛行機のコクピットが融合しパイロットを目指す事となる。

幼少期は木登りをして飛ぶ(落ちる)、自転車に羽をつけて飛ぶ(落ちる)などの独創的な訓練?を積み重ねる。
サッカーに熱中していた中学生時代に、練習中に突如飛行機雲で「POCALI SWEAT」空に描かれた。これを見てパイロット志望が再燃する事となる。 そして月日は流れ1991年、18歳から本格的な飛行訓練を開始。まずは費用の安いグライダーでパイロット訓練に入った。
映画「紅の豚」に強く影響され、飛行機野郎を目指し、20歳で飛行機操縦免許を取得するため単身アメリカへ渡る。飛行機のライセンスを取得するとともに、アメリカの航空産業の規模の違いに驚愕しその後のパイロット人生に大きな影響を与えた。
その後アルバイトで資金が調達できると1年のうち2カ月はアメリカへ渡り訓練を積み重ねた。

同時期に国内ではグライダーでの飛行訓練に励み、オーストラリアで長距離飛行技術を学ぶなどして、国内競技会では好成績をおさめた。

1995年(22歳) 目標を「操縦技術世界一」のパイロットに

但馬空港で開催されたブライトリングワールドカップ 。この大会で「ユルギス・カイリス」や「パトリック・パリス」が魅せた世界最高峰のエアロバティックス飛行に衝撃を受ける。 目標を「操縦技術世界一」パイロットに定め、本格的エアロバティックスパイロットへの道を歩き始める。 国内でグライダー教官として飛行技術を磨くかたわら、訓練資金調達に2年を費やした。

1997年(24歳) 初の競技会(スポーツマンクラス)参戦

2月に再渡米し世界有数のエアロバティックス教官「ランディー・ガニエ」に師事し本格的訓練を開始した。このランディー教官により素質を磨きあげられ、その技術を飛躍的に向上させる。 6月には一か月にもおよぶ厳しいトレーニングキャンプを経て、初の競技会(スポーツマンクラス)参戦を果たした後、7月にはアドバンスクラス世界選手権に日本代表チームの一員として参加するまでに成長した。

1998年(25歳) 国内でエアショー活動開始

国内でのエアショー活動を開始し徐々にその活動は知られるものとなる。

2002年(29歳) 競技志向型エアショーチーム「TEAM DEEPBLUES」始動

本格的に世界レベルでのフライトを目指し、競技志向型エアショーチーム「Team deepblues」をスホーイ26の導入とともに旗揚げし活動を開始する。 設立後まもなく資金難に陥り解散の危機にあったが、生活創庫・堀之内九一郎氏の無償支援により、チームは活動を開始した。

2003年(30歳) アンリミテッドクラス世界選手権へ初挑戦

アンリミテッドクラス世界選手権へ初挑戦する。右も左も分らぬまま臨んだこの大会で、プロフェッショナルが集まるアンリミテッドクラスの下位クラスとはケタ違いのレベルを痛感した。しかし同時にトップパイロットとの交流も持つ事が出来るようにんなったのが最大の収穫であった。 国内ではチームに「ロバート・フライ」が加わり“スーパーデカスロン”を使用しての、フォーメーションエアショーも開始した。

ホームベースであるふくしまスカイパークにおいては、NPO法人ふくしま飛行協会を設立。航空文化啓蒙や青少年教育活動の基盤をつくる。

2004年(31歳) エアバンディッツ始動

本格的なフォーメーションフライトを、ロバート・フライの操るスホーイ29と開始。
スホーイ二機でのエアショーを積み重ね、秋にはスパーバイザーを務めていた帝王「ユルギス・カイリス」との三機フォーメーションチーム「エアバンデッツ」を結成。 福島及び都城でフライトを実施し喝采をあびる。

2005年(32歳) 運命のプロジェクト

「POCARI SWEAT」スカイタイピングのプロジェクトを手掛ける。エアショー活動と並行して、航空啓蒙活動を本格化し絶大な反響を得る。自らも影響を受けたキャンペーンを手掛ける事に強い運命を感じる事となる。 この年、結婚。

2006年(33歳) 活動の場は世界へ

アラブ首長国連邦・アルアインエアショーに参加。ついにチームは国内を飛び出しその世界を海外へ広げる。国内エアショーも含め約20か所でフライトを実施。 10月には、レッドブルエアレースパイロット「ピーター・ベゼネイ」のフライトイベントのコーディネーションを手掛ける。この際にピーター・ベゼネイにパイロットとしての素質を評価された。
ふくしまスカイパークにおいては、NPOふくしま飛行協会が指定管理者制度のもと飛行場管理者となり、空港活性化活動を開始。 第一子誕生。

2007年(34歳) エクストラ始動

レッドブルとスポンサーシップ契約を結び、新型機エクストラ300Sを導入する。
2006年まで使用していたスホーイ26は、スペインにあるレッドブルトレーニング施設に移動しトレーニングを続ける。 6月にはアンリミテッド世界選手権に参戦。
海外エアショーも本格化し、アラブ首長国連邦・オーストラリア・南アフリカ・ニュージーランドなどでフライトを実施。 11月、FAIワールドグランプリ「オートボルテージュ」に初参戦。世界のトップパイロットから選ばれる8名のソロパイロット選手としてノミネートされた。

2008年(35歳) トレーニングの日々

レッドブルエアレース参戦を目指した本格的なトレーニングがレッドブル主催でスタート。 7か月間で8回のトレーニングキャンプを実施。7月にチェコで開催されたヨーロッパ選手権に参戦。 運命的なコーチは、1995年に大きな影響を受けたブライトリングワールドカップ優勝者のパトリック・パリスであった。

9月スペインにて開催された「レッドブル・クオリフィケーションキャンプ」にて、エアレース参戦に必要なスーパーライセンスを取得。

11月、FAIワールドグランプリ「オートボルテージュ」に参戦。パブリックアワードで一位を獲得する。 11月15日、2009年のレッドブルエアレース参戦が正式に発表された。 第二子誕生

2009年(36歳) レッドブルエアレース初参戦

レッドブル・エアレース初参戦 レッドブルエアレース・ワールドチャンピオンシップに日本人初、そしてアジアから初参戦。チームコーディネーターに盟友ロバート・フライがあたる。 前半戦をレースフライトの慣熟訓練に焦点をあてた作戦が功を奏し、後半戦から徐々に頭角を現す。 最終戦スペイン/バルセロナ大会では、6位に入賞し高い評価を受ける。

国内でのエアショー活動も増え、エアレースを含めて28か所でのフライトを実施。 また国内初の曲技飛行競技会を試行し、エアロバティックスそして航空スポーツの安全追求、底辺拡大啓蒙活動を本格的に開始。
12月、国内の最も活躍した冒険家・挑戦者などに贈られる、Faust A.G. Award 2009で「挑戦者賞」を受賞。冬季オフシーズンも、チームメイト:ロバート・フライのホームベースである、ニュージーランドでレース機の改造・訓練などに加え、エアショー活動も精力的に実施。 第三子誕生。

2010年(37歳) 国内初の公式大会 第一回全日本曲技飛行競技会開催

前年に引き続きレッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップ2010に参戦。 また、国内では初めてとなる「第一回全日本曲技飛行競技会」を開催し事務局を務める。

2011年(38歳) FOR FUKUSHIMA


3月11日に起きた東日本大震災により、ホームベースであるふくしまスカイパークも滑走路に亀裂が入るなどの被害を受ける。震災後3カ月はヘリコプターによる緊急支援活動を最優先に取り組み、目指していた世界選手権参戦も一旦白紙に。 そんな中、5月にはあづま運動総合公園に避難している子ども達を招待し「GW特別行事・少年少女航空教室」を開催、エアショーを披露。徐々に活動を再開し、9月には困難かと思われた世界選手権へも多く支援を受け参戦。 10月、第2回全日本曲技飛行競技会開催。公認事務局、安全委員長を務める。

2012年(39歳)世界曲技飛行選手権・日本チーム結成に向けて


元世界チャンピオンであり、世界屈指の名コーチでもあるパトリック・パリスを福島に迎え、4月、5月の2回にわたり、国内で初めてEDGE540を使用し世界選手権参戦に向けたトレーニングキャンプを実施。
8月にスロバキアで開かれたアドバンス世界曲技飛行選手権に、もう1名の選手とともに参戦。日本チームが結成できる3名体制での参戦は叶わなかったが、将来の「日本チーム」結成に向けて大きく前進した。9月にはヨーロッパ選手権にも参戦。 同年、福島をPRする福島県の「あったか観光交流大使」に就任。

2013年(40歳)世界曲技飛行選手権 フリースタイル入賞


2012年からの訓練を継続し、10月の世界選手権に向けて大会開催地のアメリカにて8回のトレーニングキャンプを精力的にこなす。フリースタイル部門で初の6位入賞を果たす。 6月には、レッドブルエアレース再開に向けたクオリフィケーションキャンプにも参加。各種試験に合格しスーパーラインセンスを再取得。 ブライトリング社ともスポンサー契約を結び、複座型Extra300Lが導入される。

2014年(41歳)レッドブルエアレース再開


三年間の休止期間を経て、ついにレッドブルエアレースが再開。休止期間の集中トレーニングが功を奏し、第二戦クロアチア戦で、自身初の3位表彰台を獲得。年間を通してコンスタントに戦い、総合9位でシーズンを終える。  地元福島では、多くの復興支援イベントでフライトを披露。

2015年(42歳)初の母国戦・スカイスポーツプロジェクト始動


5月にレッドブル・エアレース日本初開催。初の母国戦の舞台となった千葉市・幕張海浜公園に詰めかけた12万人の観衆を前に、トラックレコードを記録。 8月のアスコット戦、9月のフォートワース戦で2回の3位入賞を果たし、年間総合成績も自己最高の6位で2015年シーズンを終える。  レースの合間も精力的に全国各地を飛び回り、エアショーを実施。9月には子どもを対象としたスカイスポーツ・プロジェクト「福島の輝く未来へ!スポーツわくわくプロジェクト~大空に羽ばたけ!スカイスポーツ教室~(主催:福島県・文化スポーツ局)」を初開催。子どもたちに向けたスカイスポーツ長期プロジェクトを本格始動。 福島市の魅力を国内外に発信する「福島市・ももりん大使」に就任。


現在まで18年間、230箇所以上でエアショーを披露。無事故。

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